哲学入門ー哲学とは何か?わかりやすく

ある神秘学徒の読書ノートであります。哲学に入門するためのブログであることを心がけて書きました。「哲学とは何か?」を理解してもらうために(そして、自分が理解するために)、わかりやすく哲学入門書や哲学書を要約していきました。

10分間日記

西田幾多郎の入門書 純粋経験 10分間でまとめる 2

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藤田正勝『西田幾多郎−生きることと哲学』の第二章「根原に向かって−純粋経験−」をまとめていこう。
きちんとやろうとすると、長い時間がかかってしまう。
10分間の日記だし、行き当たりばったりにまとめていきたい。

前回は『善の研究』の題名が実は「純粋持続と実在」であったと言った。
経験と聞くと個人的なものを思い浮かべる。一方、実在とは客観的に誰に対しても存在するような「事物の真の姿」という意味であった。

このように一見相対立するような用語が同一であると西田は言っているのであった。
では、実在である純粋経験とは何か。
『善の研究』の第一章 純粋経験の冒頭は次のようになっている。

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。[略]例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である。

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、1950年、17頁

純粋経験というのは、本当に文字通り、純粋な経験のようだ。
一般的な経験というものから、あらゆる判断を取り除く。このような表現は行けないかもしれない。
様々な判断がなされる前の段階に降り立つ。そこにあるのが純粋経験のようだ。

ここで注目したいのが、色や音に関して判断を下す前と述べているところだ。
「りんご」を見ているとか、パトカーのサイレンを聞いているとか、いうけれど、見ているのは「りんご」ではないし、聞いているのは「パトカー」ではない。

例えば、夜にベッドの上でサイレンを聞いたら、「あ、外にパトカーがある」と思うだろう。そのとき私はパトカーを知覚しているのではなく、音を知覚しているのである。つまり、「音」という感覚から、「パトカー」を見出しているのである。

これは「りんご」も同様だ。「りんご」を見ているのではなく、「赤い丸」から「りんご」を判断しているだけである。

純粋経験の説明の時に、物体の例が出てこないのは、そのためだ。

そして、純粋経験は主体−客体という「関係」に関する判断も下さない以前の経験であるという。
だから、「赤」が私「に対して」、私「の外部に」あるというような関係の判断を下す前の経験なのである。このような主客未分の状態が純粋経験なのである。

たとえばリンゴを目の前にしたとき、われわれはそのリンゴをあるがままに、そのものとして見ていると考える。しかしそこにはすでに、認識の担い手(主観)と認識される対象(客観)という対立図式が生みだされており、その図式の枠のなかでわれわれはものを認識している。つまり、私が対象であるリンゴを見るという構図を前提にした上で、リンゴが見られている。われわれはこの枠組みのなかで捉えられるものを真理として、言いかえれば、事柄の実相として考えている。
 しかしほんとうに事柄の実相を捉えようとするのであれば、この知の枠組み自体を問題にする必要があるのではないか。

藤田正勝『西田幾多郎−生きることと哲学』岩波新書、2007年、42頁

以上!

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